- from Five Years Party -
 
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【2013.05.29 Wednesday 】 Author : スポンサードリンク
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『5年間が長いか短いかは君がきめろ』
こうして君に手紙を書こうと思ったのは、ある時ふとしたきっかけで思い始め、考え続けてきたことを突き詰めたところ、やっと結論に達したので、誰かに話したいと思ったからなんだ。こんな機会はもうないだろうから。
君の事だ。「いや、そんなことは、遠い昔の偉い学者さんが気付いて、その理論を証明してるよ」なんて言うかもしれない。でもそれは、僕自身、その学者の存在を知らなかった訳だから、僕のオリジナルの理論と考えて間違いないよね。ただ、重大なミスがある。それは僕がその事を、何らかの科学的事実を持って、いまだ証明できていない事にある。
あくまでも推測、仮説なんだ。しかし、奇跡的に同じ事を考えた人間が同じ時期に2人いたことがあってもおかしくない。電話機を同じ時期に発明したエジソンとベルのようにね。

さてここからが本題だが、その僕の仮説とは「人間は時間を、短く感じたり、長く感じたりしているが、それは実際に時間が短くなったり、長くなったりすることによって起こっている」というものだ。
よく楽しい時は、時間が「短く感じる」し、つまらない時は、「長く感じる」経験は、君もした事があるだろ? もちろん僕にもある。
 でもそれはあくまで「感じている」ことによるものなのだろうか?ひょっとすれば、本当に「長かったり」、「短かったり」するのかもしれない。

 君には、時計が時間を正確に、等間隔に刻んでいる以上、時間そのものは全員平等にあるはずで、短く感じたり、長く感じたりすること、それはそう「感じている」に過ぎないと言われそうだ。
でも、時計がいつも時間を均一に刻むというのは、見せかけかもしれない。例えば時計が1時間を刻んだとする。でもそれは、地球が1日に一回自転するということを基準とし、それを24に分けたんだ。最も、それが世界を同じレベルに並べようとした時、分かり易い基準ではあったのかもしれないけど、それが使いやすいと思うのは、全ての人に当てはまることではない。
現に、「夏時間」を定めている国もあるわけだよ。

 また、別の話をするが、これは危険な思想が絡みそうだから、言うのはやや憚られるのだが、自分はどこまで行っても自分であって、人は人、他人なのだ。人がどんな感じ方をしていても、どんな時間軸で過ごしていても、自分がその人の事を奥深くまで知る事には限界がある。ひょっとしたら、「自分」を主人公にした、人生という物語の中では、他の人(例えば君のような人さ)は、あくまで脇役なのかもしれない。
 そう考えれば、僕が時間を長引かせようが、短くしようが、人の知ったことではない。実際に時間は短くなったり、長くなったりするんだよ。
 ただ勘違いしないで欲しいのは、僕はそれを使って、他人を排斥する気はない。人は誰かをとことんまで知りたいと思い、できないことはうすうす分かっていながら、それに挑戦する生き物であることは分かっているし、僕もそう信じたいんだ。

 五年間か。本当に短かった。僕はこの時間を、「短いもの」であって、「短く感じたもの」ではないと思いたい。許されるなら、この時間をもっと過ごしていたい。
 でも今の世の中、全てのモノが同じ時間軸の中で生きていると信じられている以上、それは許されるものではないようだ。
 では行くよ。君に最後にこれが話せたことが嬉しかった。やや僕の一人よがりになった気配はあるのだが、最後まで付き合ってくれてありがとう。

 時間は君が決めろ。僕が言った通り、五年間が短いか長いかは君が決めるんだ。
【2007.06.13 Wednesday 20:18】 Author : Joker
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